未来に向けて

自閉症スペクトラム/ADHD 心の整理 自分を分析し理解するためのブログ。

性別違和

パターン化されたセリフや聞き役に徹しながらも
縁ありできた友人としばらくつき合っていると、
高い確率で
「少年のようだ」とか同性愛者か
と尋ねられることが多かったです。

自分の性別は女であり
男になりたいという願望はありませんが、
世間一般の大部分の人が持っている
「自分は女性である」
という認識には遠いと感じています。

男女以前に
人の生活に馴染むので精一杯というのもありますが


人間の造形としては圧倒的に
女性に色気があると感じます。
男性は普通の人間の身体だ、と思います
(表現が不適切かもしれない)

そして自分は
女性用の下着を身に着ける事が出来ません。

理由は感覚過敏なのか、
こだわりからの新しい服への抵抗か、
性別違和なのか、
その全部なのか…

一生のうちに理解出来ず解決できずに終わる事が
山程ありそうです。

人を動かす言葉

卒業発表、無事終わりました。
あとは論文と国試勉強…のため更新頻度低めです。

人が言葉を発する時、
「暗にこうして欲しい」という意味で
別の言葉を使う、そんな事をしてると思います。

自分の特性として、
言葉通りの意味に受け取る傾向があるため
常にその意味以外のパターンを念頭に置いて話していました。だから聞き手としては人といざこざにはなりにくかったですが

そもそも空気そのものが読めてないため
常に例外を考え続けなければならず
常識は身につきずらく…

また自分の発言にも
「言葉以外の意味を込めていない」

自分の考えを深読みする人が多いなあ、と
昔から思っていたのですが、
それがおそらく普通に空気を読んだ結果だと理解しています。

自分にとってはこの誤解が辛く、
「こういう事をして欲しいという意味だと思った」
逆に
「こういう事をして欲しくないという意味だと…」
と聞くと
申し訳ない気持ちになり
反省しながら心理学の本を読む事が日課になりつつあります。

なぜそう深読みして受け取られるのか?
の疑問に対して自分なりには

「自分の発言で誰かを動かしたい」
「誰かに自分の為に何かをして欲しい」
という希望や感情を人が持っているから、
だと考えましたが、合っているか微妙な所です…

空間に配置された物体

体調があまりよくないので昔のことを

 

 

*

自分にとっておもちゃのミニカーのタイヤを回したり凝視するのは

ごくごく自然な遊び方でした。

というよりそれ以外の用途が見当もつかなかっただけですが…

 

人形も靴の付け外しの感覚を楽しむだけ、パズルは何百回も組み立て

ブロックやレゴは自分なりの規則性で並べていました。

 

自分にとって

タイヤを床につけて動きを凝視するのは

タイヤの円周が直線距離でどのくらいになるのか調べるためで

 

水に出しっぱなしで永遠と触って遊ぶのは

水の落下や表面張力を面白いと思っていたためでした。

 

見えているものそのものしか見えていないというのは

物理や数学に強いという強みになりましたが、

直接それが仕事に結びつく進路を選んでおけばという後悔があります。

 

想像の世界は人にとって大切だと思います。

最近よりよく周囲の人を見ていると、

現実の世界にも想像力を交えて捉えているのだと感じます。

 

“むき出しで何にも守られていない”と昔から漠然と感じていました。

原因は

空間に配置された物体の一部としか自分や人を捉えていなかった

ためかもしれません。

 

それで正しいとも間違ってるとも自分にはわかりませんが、

想像力を鍛えたいためそれ以外の感覚を生涯模索中です。

 

 

ただの薄情者

私の卒業の件は担当の先生のご尽力のおかげで
乗り切れる見通しがつきました。
感謝を伝えてもし尽くせない事だ、と思います。



感謝の「心」について何十年も疑問に思っていた事があります。

他人に対するありがたいという気持ちはプラスの気持ちなのか。
感情として嬉しさや、高揚したり安心したりする心の動きがあるのが正しいのか、

心を込めて感謝の気持ちを伝える、とはどういう状態か。


対面・対人において
プラスの感情が自分の中にあまり沸き起こりにくい罪悪感、
解決済みの問題の疲労感にとらわれ
手伝ってくれた相手に対してさえストレスが連想されてしまい
その人を避けたくなる事態をどう自分で対処すればいいのか。


それを相談したところカウンセリングの方は
「ありがたい事であるという状況を理解出来て
自分の感覚も自覚した上で
感謝の言葉を相手に伝えようとしている事が大切だ」と
私が前向きに自閉に向き合えるようにアドバイスをされました。

しかし最近は
ただ生まれつき自分が薄情者な人間だっただけだと開き直った方が
障害があるから心を感覚で理解できない、と考えるより辛くないのかもと思うことがあります。

頑張ります

口頭の会話は普通の人が想像する以上に細かいニュアンスに溢れていて

重大な局面ほど小さなニュアンスミスが
大きな間違いに変わり

現在進行形で卒業が少し危ういです。
合理的配慮は受けていますが
自分のせいでままならない部分もたくさんです。

共通の意識というものは
「自分が相手の立場ならそう考える」
で成り立ち

他人を知る基準は普通
自分自身の感覚に依存しているはずです

自分のおかしな感情や感覚さえ完全に理解出来ていない私には
難しい事です


しばらく休みます。

31通りの空気を読む

パターン化する事はおそらく自分が得意な事です。

成長とともに緘黙症を克服した後は、
友人一人ひとりの会話パターンを知って相手に合わせ
会話がスムーズに出来ているようにみせかけていました。

このやり方のいい所?は
無数に定型文化された言葉を発しているだけなので
目を見て話せる、表面上は相手に失礼がない事です。


人には一人ひとり纏ってる空気があると思います。
しかし人が複数人集まれば全体の雰囲気も変化します。

私が自分以外にA~Eの
5人の人間がいる組織に所属しているとすると、
組織内で会話をする時31パターンの空気を覚えなければならない。

いつも以上におかしい話ですが
・自分+Aさん
・自分+Aさん+Bさん
・自分+Aさん+Bさん+Cさん

と、全ての組み合わせによって話す内容も
空気も全く違うように感じます。
そこから適切な言葉や話題、返答の仕方を選んでいくやり方です。

自分が発している空気は自分自身なので含めないとして

5C1+5C2+5C3+5C4+5C5=31通り
簡単にすると
2^5-自分=31通り

なぜか周囲が6人になると上手くいきませんでした。
2^6-自分=63通り
は自分には把握出来ず無理です。

自分の友人キャパシティは5人以下です。
大学では数十人いる研究室メンバーとどう接すればいいか分からず
パニックになってしまい上手くいきませんでした。

考え方を変える必要があるのか。

現在は目を見ない話し方でカウンセリングを受け
その状態で会話力をつけることを目指していますが
かなりの難関に突き当たっていると感じます。

方言やオノマトペが話せない理由

生活には支障がないけれど出来てなかったと感じたこと

自分はあまり方言を話せていない、という事に気がつきました。
特性のひとつだと気づくまで意識した事もなかったので考えてみました。

方言は感情が出やすいものだと思います。
そのため苦手意識があるのと、

本来その意味を持つ言葉=標準語でないと
落ち着かない、相手に意味が正しく伝わらない
と私はいつも感じていたように思います。

相手は同じ方言を話す人間なのに…
この感覚は自分でもよくわかりませんが
オノマトペも同じ理由であまり使用しません。

音通りの言葉ではないため
「正しくない」 「伝わらない」と感じます。
やはり"人間同士が決めた社会的ルールや 文化的な側面を取り入れて使うのは苦手"らしく

常識も単に知らなくて使えないだけでなく
知ってても使えない場面がありました。

園児だった頃、強制参加のごっこ遊びが出来ず
苦肉の策として犬の遠吠えを研究し
真似した事を思い出しました。

「ワンワン」じゃないんだね…と言われてさらに
何をどうすればいいのかわからなくなった記憶があります。

屁理屈にみえたかもしれません。
体感では
・外界のものが記号化されにくい
・社会的な装飾を受け入れずらい
これらもできない理由のひとつかなと思います。

方言で困ったことはないのでこのままでも、と思いましたが
せっかく気がついたのでローカルラジオを手本に練習してみようかと思います。